「見送ってくれる人」の存在

自死 アーメン キリスト教 教会 宗教 葬儀 牧師 神父 礼拝 死 命 復活 聖歌隊 祈り 十字架 マインドセット 聖書

身寄りのない方の「お別れ会」 

 私は以前、ある小さなホスピスでチャプレン(病院付き牧師)として働いていました。そこでのチャプレンの大切な働きの一つに「お別れ会」というものがありました。患者さんが亡くなられた後、ご家族と病院スタッフと共に、礼拝形式で短いお別れの時を持っていたのです。皆で患者さんを囲んで、聖書から慰めのメッセージを語り、共に祈るという日々を送っていました。 

 基本的にはご家族の希望がある時にのみ行っていましたが、時として身寄りのない方のお別れ会と、また納棺式をも行うことがありました。そのような場合、一般的な葬儀は基本的には行われません。ですから病院で行うほんの20分ほどのお別れ会が、その方を見送る葬儀の代わりとなるわけです。そうでなくてもお別れ会というのは緊張感のある務めでしたが、このようなケースでは一層身の引き締まる思いになったことを思い出します。 

 その際は地方自治体の方が来てくださって、火葬・埋葬までを担ってくださいます。一人っ子で、当時独身だった私は、「もしもの時には、たとえ独り身であったとしても、こうして見送ってくれる人がいるのだな」と安心感を覚えました。 

「見送ってくれる人」がいる安心感 

 近年はコロナ禍の影響もあって、家族葬を選択する方や、葬式を行わない、いわゆる「直葬」という形を選ぶ方も増えています。そんな昨今ですが、以前お世話になっていたある葬儀会社のスタッフの方が、「いわゆる『直葬』を選ぶ方もおられますが、私自身はそれを『直葬』と呼ぶべきではないと思っている」という旨のことをおっしゃっていました。その時はわかったようなわからないような、中途半端な頷きをしてしまいましたが、今になってその意味がわかるような気がするのです。あの時の言葉を私なりに解釈するなら、たとえ「式」としての「葬儀」は行われなかったとしても、人が亡くなる時、そこには「見送ってくれる誰か」がいて、見送りに際しての思い、祈りがあるのだということではないでしょうか。それは「式」という形は取らずとも、やはり一種の葬送のセレモニーなのではないかと私は思うのです。 

 また、身寄りがなくても、「自宅」という場で最期を迎えることを選択する方もおられます。その場合、息を引き取る瞬間に誰かがその場にいてくれるとは限らず、悲しいことですが、いわゆる「孤独死」となるケースもあります。そもそも私たちはこの世を去る時は、そばに誰かがいてくれる、いてくれないに関わらず、本質的には「独り」です。2024年11月5日の富田正樹牧師によるコラム「たとえ独りで逝かねばならなくても – あなたに知ってほしいキリスト教葬儀」をぜひお読みください。しかしその一方で、矛盾するようですが、誰かが私たちの最期を見送ってくれるということもまた、事実なのです。病院で息を引き取ったならば、病院のスタッフが。身寄りのない方ならば、先述のように地方自治体の方が。他にも葬儀会社や火葬場のスタッフも関わってくださることとなります。その方々は故人と親しくしていたり、その人となりをよく知っていたわけではないかもしれません。それでも、故人への敬意と祈りをもって、見送ってくれることでしょう。私たち人間は、一人では生きていくことができない存在です。それと同じように、人は一人では死ねないものなのだと私は知りました。 

人それぞれの生き方、死に方 

 話は変わりますが、私はかつて、いわゆる「ピンピンコロリ」と言われるような死に方が一番いいのでは、と何となく思っていました。けれどもホスピスで多くの患者さんと接している中で、死生観がだんだんと変わっていくのを感じました。最期までしゃっきりと、ご自分らしく立派に生き抜き、亡くなるというのも、もちろん素敵です。けれどもそのような「立派な」死に方ではなくてもいいのかな、と思うようになってきたのです。たとえば苦痛を和らげるためにお薬を使った結果、少しぼんやりしてしまったり、あるいは認知症になってしまったりということもあるかもしれません。そのような場合は、家族や親戚、医療・介護従事者の皆さまの手をお借りしながら生き、そして死んでいくことになりますが、それも案外悪くないなと思うようになりました(できれば「ありがとう」の言葉だけは伝えたいものですが)。 

 このコラムを読んでくださっている皆さんはどんな生き方、そして死に方をしたいと願っておられるでしょうか。もちろん願った通りの生き方、死に方になるとは限りません。しかしどのような亡くなり方であったとしても、あなたのそばには必ず、「あなたを見送る人」がいてくれるのです。 

汐碇直美
トップページ 牧師コラム 「見送ってくれる人」の存在