ある日のメール
もう10年近く前のことです。当時、私は広島県の教会で働いていました。幸い、教会と普段関わりの少ない友人にも恵まれ(実はこれは牧師たちのクオリティ・オブ・ライフにとても重要です!)、楽しく過ごすことができていました。ある冬の日、そのように仲良くしてくれていた友人Nさんから、ふしぎなLINEがありました。
「ヒカルさんいま教会いる?ちょっとお祈りさせてもらってもいい?」
急にどうしたんだろう?とは思いましたが、もちろん断る理由なんかありません。「いつでもどうぞ」と返信しました。ほどなくして彼はやってきて、一人、礼拝堂へ入っていきます。あまり詮索しても…と思い、私は何も聞かず礼拝堂隣の執務室で次の礼拝の準備をしていました。しばらく経って、「まだおられるかな?」と遠目に様子を見に行くと…。Nさんは静かに涙を流していました。
祈りのわけ
もうしばらく、涙とともに祈りのひとときを過ごした彼は、「帰る」と声掛けしてくれたので、私はお見送りに出ました。
「かあちゃん、死んだんよ。」
そこで、びっくりする知らせ、今日の全ての理由をNさんは静かに伝えてくれました。
本当に驚きました。お母さまは元気に豆腐屋を営んでいたはずです。
「え、なんでですか?」
動揺した私が聞くと…。「老人病のようなものよ、風呂でね」。
Nさんは、突然逝去されたお母さまを見送る葬儀諸式に喪主として向かう前、少しだけでも心を落ち着けるための時間を過ごしたいと願い、教会を訪ねてくれたのでした。
自宅や葬儀会場のお寺では、いろいろの準備物が目に入ってしまうほか、弔問者があれば応対しないとならないでしょうし、神社だと基本的には屋外なので、心置きなく泣くのには緊張感がある、と思われたのかもしれません。考えてみると、誰の目も気にせず、ゆっくり深呼吸して、泣けるだけ泣くのに、教会はとても向いています。そして人生には、時にそれを必要とすることがありえます。
キリスト教徒でなくても、心落ち着ける祈りのひとときを
その日の夜から、お母さまの葬儀諸式が檀家のお寺で行われ、私もお通夜に参列しました。多くの人々が訪れ、慰められるときでした。
式の終了後、帰りがけにNさんにご挨拶すると、彼はこのように言ってくれました。
「さっきはありがとう、あれは本当に助かった。」
この経験は、私にとって教会の価値をよみがえらせるものとして記憶され続けています。
もし祈りたくなったなら、キリスト教徒であるなしに関わらず教会で祈ることができる。そこで慰めや心の平安を得られる可能性がある。
葬儀に関してでも、そうでなくても、悲しいできことがあれば、教会でお祈りできます(もちろん嬉しいことがあった時の祈りも歓迎です)。
信徒であるなしは関係ありません。「祈り」と言っても特に整った形式でそれをする必要はありません。ただ泣くだけでも、それによって心の平安があるのだと思います。「泣きどころ」としても、教会はいつでも皆さんに開かれています。
もちろん…。どこで祈るとしても、泣くとしても、神はその言葉と涙を、優しく受けとめてくれています。神の慰めと守りが、皆さんと共にありますように。