牧師もさまざま?
ひとくちに「牧師」と言ってもその働き方はさまざまで、その職務の全体を一言で規定するのは実は難しいところがあります。(でも本当は、他の職業についても大枠同じような名前ではあるが実はその働き方が多様であるということは「あるある」ですよね。例えば「プロ野球選手」という括りで考えてみても、投手か野手か、どのポジション、役割か…などによってトレーニングメニューや試合への準備の仕方がかなり変わってくると思います。)
牧師も、書物に囲まれてじっくり聖書を読み、真理の探求を大切にする人、教会関係の幼児施設や福祉施設などでの職務も持っている人、他の業界との兼業をしている人、学校や病院、教会内の研修施設などが主な職場である人と様々で、日々の時間の使い方にもかなりのバリエーションがあります。

どれが正しいということではなく、それぞれに最も神と人のために力を発揮できる方法で働いています。例えば、私は教会関係の幼児施設での職務もあるタイプですが、そこで子どもたちや職員と学び取った子ども観は、間違いなく教会での職務に良い影響を与えています(もちろん逆方向(教会→幼児施設)の良い影響もあります)。
共通は祈り/礼拝
本当に多様な働きである牧師という職務ですが、共通しているのは生活の中に「祈り/礼拝」がある(特にこれらに何らかのリーダーとして関わる)ということです。特に、最古の教会から大切に受け継いできた「日曜日の礼拝」(主日礼拝)が生活全体に重要な意味づけを持っています。キリストの復活した曜日・日曜日が信徒たちの共同の祈りの日になりました。雑学的に言えば、日本においても官公庁が日曜日にお休みなのは、このキリスト教文化からきたものと言われています。
さて、日曜日の礼拝で、牧師は多くの場合「礼拝説教」と呼ばれる礼拝内の講話を担当します。聖書やキリスト教の解説、教会や世界をもっと優しく生きやすいものにするための提言と実践の報告、神の祝福や癒やしの宣言といったところが基本的な内容で、これらを通し、新しい平和な世界の訪れ、天国の安らぎを物語ります。またその方法は、スピーチ、講演、漫談、講談、プレゼンテーション、朗読劇、ポエトリーリーディング、MCと歌など様々です。クリエイターが自分の作品によって生きる力を得ることがあるように、この説教が語る人(牧師)自身をも励ましているのです。

そのため、日曜日の定められた礼拝の時間(多くのケースで朝〜午前中)には、どこか別の場所に伺うことは基本的には難しいというのが現実です。日曜が休養日となった際にも、いずれかの教会に出て祈る時間を過ごし、新しい一週間をつくっていきます。もっと言えば数多くの牧師がそもそも牧師としてあり続けるために、この時間を欠かすことはできないのです。(はじめに用いたプロ野球選手のたとえで言いますと、先発ローテーションが日曜日にあたる投手というのに近い部分があると思います。つまり、日曜のマウンドはその人がプロ野球選手であり続けるために最も重要な要素となり得る、ということです。)
私たちのプロジェクトでは
ともなるに参加している牧師たちの多くは、この日曜礼拝の職務を持っています。ですから、日曜日に司式に伺える牧師が少なく、ご希望に添えないケースや少しの時間変更をお願いするケースも、大変申し訳ありませんがありえます。(日曜日に定められた職務のない牧師もいますが、少数です。またその牧師たちも、一日のうちのどこかに祈る時間を持ち、それによって職務全体がつくられているのは間違いありません。)

しかし私たちは、このサービスとしてのある種の不便さを「本物である証」と考えます。葬儀で語られる慰めのメッセージや葬儀・礼拝全体を司ることもまた、主日礼拝(日曜礼拝)をはじめとした牧師としての働きの積み重ねが基礎となっているのです。最大級の便利ではなく、最大限に心を込めた慰めのひとときをお約束いたします。