人は誰でも独りで世を去ります。「孤独死」という言葉を聞いたことのある方も多いのではないかと思いますが、人は誰でも死ぬときは孤独です。なぜなら、人は他人の死を経験することはできませんから。
どんなに周りに家族や友人がいても、死ぬのは自分自身です。では、誰がこの孤独を癒してくれるのでしょうか。
いつくしみ深い「友なる」イエス
キリスト教葬儀のご紹介サービスである「ともなる」は、すべての人の「共なる存在」また「友なる存在」として、キリスト教葬儀をしたいと思う方々には誰にでも「ともなる」存在になりたいという願いからつけられた名前です。
この「ともなる」という言葉からは、おそらく日本で最も有名な讃美歌のひとつであろう、『讃美歌21』の493番「いつくしみ深い」という歌が連想されます。
この讃美歌の歌詞は「いつくしみ深い 友なるイエスは」という言葉から始まり、「世の友われらを 捨て去るときも・祈りに応えて なぐさめられる」という言葉でしめくくられます。
「愛情深いイエスさまは、私たちの友であり、この世の友人たちが私たちから離れたとしても、祈りに応えて慰めてくださる」という意味になります。
イエスという人は、今からおよそ2000年前にいた人で、キリスト教では、この方が今でも私たちの心のなかで、いつも私たちに寄り添い、支えてくださっているとされています。
このイエスさまが、永遠に私たちの「友なる」方になってくださっているので、私たちは孤独ではない。この讃美歌はそう教えてくれるのです。
私たちは自分の死しか経験できません。
独りで暮らしてきた人だけでなく、たとえ愛する家族や友人に囲まれていたとしても、誰も一緒にあちらの世界についてきてくれる人はいません。死ぬことは、この世の人たちとの永いお別れなのです。
死にゆく時、私たちはそのことを思い知らされ、強く孤独感に襲われる人も少なくありません。この私が死んでしまったら、ひとりぼっちで知らない世界に飛び込んでゆかなくてはならないのでしょうか。
そんなときにキリスト教では、「あなたには永遠の『友なる』イエスさまがついているのですよ」と教えているのです。
あなたを見捨てず、置き去りにはしない
こんな聖書の言葉があります。
「私は決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにはしない」(聖書協会共同訳:新約聖書「ヘブライ人への手紙」13章5節)。
私たちは独りでこの世を去らなければなりませんが、あちらの世界に往く時、決して独りのままでその道を行かねばならないというわけではありません。
あちらの世界で私たちは、神さまのもとでゆっくりと憩いの時を過ごすことになりますが、そこに行き着くまで、神さまご自身が寄り添って、連れて行ってくださる。私たちは置き去りにはされないのです。
これは、キリスト教を信じているか信じていないかには関わりありません。誰の命も、神さまにとっては大切な宝物だからです。
また、こんな言葉も聖書にはあります。
「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める」(聖書協会共同訳:旧約聖書「詩編」23編4節)。
私たちが死んであちらの世界に向かって旅をするときに、神さまが常にそばにいてくださることが、ここにも書かれています。「共なる」神さまがいるから、安心して私たちは往くことができるのです。
ここでは人間の魂は羊に、また神さまは羊飼いにたとえられています。羊飼いの「鞭」は恐ろしい狼から羊を守るためにあり、「杖」は私たちがよろけて倒れそうになるとき、私たちを支えてくれます。
こんな風に聖書は、私たちが死んだ後も、いつも守られ、支えられているのだということを教えてくれるのです。
あなたは独りではありません
そういうわけで、私たちは死んだ後も、心細く思う必要はありません。「共なる」そして「友なる」方が寄り添ってくださることを、しっかりと想像し、イメージして、人生の最期の時を迎えるようにしましょう。
「私はクリスチャンではないし、そんなことはとても信じられない」と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、あなたが信じられなくても、私は信じています。あなたは独りではありません。たとえこの世では、独りで死ななくてはならなくても、死んだ後まで孤独でいるということはないのです。
葬儀を行う牧師は、あなたが死後、神さまのもとに憩い安らぐまで、しっかりとあなたの魂が守られるようにと祈ります。その祈りに応えて、神さまはあなたをご自身のもとまで導きます。
そして、神さまのもとに着いた時、あなたは会いたかった方々と再会することができるでしょう。会いたくなかった人とも和解し、この世での苦悩をねぎらい合うこともできるでしょう。
ですから、何も心配することはありません。あなたは孤独ではないのですから、どうぞ安心してください。