キリスト教葬儀は礼拝として行われます。そこでは讃美歌が歌われ、祈りが捧げられ、牧師による説教が語られます。ここでは実際に、筆者が牧会する京都葵教会で語られた「葬儀説教」の原稿をノーカットでお届けします。
見えない部分に
聖書:マタイによる福音書7章24〜29節
先週の木曜日の朝、天に召されましたAさんのお連れ合いであるBさんから「夫はクリスチャンではありませんが、京都葵教会とは色々と繋がりがあり、今回の葬儀を教会でお願いできないでしょうか。」とお電話をいただきました。
Aさんのご両親である、お父様のCさんと、お母様のDさんは、京都葵教会の教会員であられました。同志社の創設者である新島襄の教えに憧れをもって、鳥取から京都に来られたCさん。そして、ご兄弟が同じ同志社に通っていた関係で出会われたDさん。そのお二人の間にAさんは三男二女のご長男として、1934年(昭和9年)1月14日に、この下鴨の地でお生まれになり育たれました。
Aさんは幼少の頃から体を動かして遊ぶことがお好きであったようで、特に高校時代からは本格的にスキーに打ち込まれ、70代までスキーを続けておられました。Bさんからは「国内だけなく、海外にも出かけて行き、家族にも強制的に子どもたちはスキー場に連れて行かれていました」という、エピソードも聞かせていただきました。
また、海外で出会われた方を招いて日本で交流される際には、おもてなしの心をもってその方々との交わりの時を過ごされ、人を受け入れる懐の深い豊かな性格の持ち主であったことも伺いました。
そのようにAさんは家族や友人の方々と過ごす空間作りをとても大切にされてこられました。そして、その空間を生み出す思いというのは、建築家としての仕事にも活かされておられたことを思います。特に、仕事に対する思いは人一倍強い執念を持っておられたことを、Aさんが取り上げられた様々な取材記事を拝見させていただく中からも伝わってきました。
「建築は狂気がないとやれない。しかし、それが狂気であることを冷静に見る自分も必要である。」これはインタビューを受けられた時に答えられたAさんの言葉です。物事をしっかりと見据え、他人だけなく自分自身への深い問いかけがなければ生まれてこない言葉だと私は感じました。
仕事も、趣味として楽しまれてきたことも、こだわりとゆとりを持って極めていく、命の軸となる確かな芯を持ってAさんは地上での歩みをなされてきたのだと思います。
また、Aさんがそういった方々のために、また、自らのために、生涯をかけて従事されてこられた建築家としてのお働きは、特に強い思いを持っておられたことを感じます。
旅行に出かけた先々でも、世界のあらゆる建築物をご覧になられ、建物の構造だけではなく、その建物全体に込められた製作者の思いに触れながら、Aさんは最も深い部分まで学ばれ、人生の糧を得られてきたことと思います。
その意味では、建物や人物といった見える部分だけではなく、「心」という、私たちの目では見えない事柄にもAさんはいつも目を向けられ、見えない部分にこそ「大切な気付きがある」と、考えておられたのではないでしょうか。
命の土台
私は建築の専門知識がありませんので、推測となってしまうかもしれませんが、立派な建物が立ち並ぶ中で、一番大切な部分はどこかと問われたならば、私は何よりもその建物が建てられる基礎、つまり、土台にあると考えます。
どれだけ立派な建物も、この土台がしっかりとしていなければその美しさを保つことはできません。Aさんがこれまでに手がけてこられた建築も、それを支えるために必ず土台となる部分のつながりを考えてこられたはずです。
そして、建造物だけに限られたことではなく、これは命を受ける私たちの人生においても同様のことを言い表すことができます。私たちは一人一人に命の宿った「体」という建物をもっています。聖書の中ではそれを「神殿」と表現することがあります。そして、その命を最も根底から支えるものは何か。これをキリスト教の中では、キリストを信じる信仰であると考えています。
今日お読みいただきました聖書の箇所も、まさにその信仰という土台によって守られる命と、自分の力だけで作り上げる土台に生きようとする者とが対比されるように語られています。
信仰の土台。それは、キリストが十字架の上で私たちのために献げてくださった命によって形作られたものです。そして、その土台を深く見つめる中に、神はその生涯に豊かな祝福を注ぎ、永遠の命に繋がる歩みへと導いてくださることをキリスト教は大切な教えとして守っています。
つまり、たとえ今生きている私たちの体が亡くなったとしても、キリストという土台の上に建てられた命は、いつまでも生き続けるということです。キリストに招かれる死は、それが終わりではなく、これは永遠の命に生きる始まりを意味します。これがキリストの復活によって与えられた信仰なのです。
キリストの招きがある
最初に少し申しましたが、「Aさんの葬りの式を京都葵教会でできませんか。」とBさんがおっしゃられました。しかし、その前に「主人はクリスチャンではありませんが可能ですか。」と言われました。「クリスチャンではない」、「教会員ではない」という不安をBさんはお持ちだったのではないかと思います。
しかし、この会堂が建てられた今から20年ほど前、当時牧師として京都葵教会におられた佐原英一牧師が、会堂建築にあたり建築家であるAさんに様々な助言をいただいていたことを伺いしました。
また、ご両親が教会に関わりを持たれる中で、AさんもBさんも永眠者記念礼拝にご出席して下さったり、キリストが備えられた特別な交わりの中で共にその恵みに触れられてこられました。
そして、たとえ、洗礼を受けていなくても、信仰の告白をしていなかったとしても、イエスはAさんを永遠の住まいとなる「神の家」に招かれておられることを私たちは信じたいと思います。
また、今こうして私たちが共にこの京都葵教会で葬りの式を営んでいることも、これは単なる偶然ではないと私は信じています。この時は、私たちの都合によってではなく、Aさんがこれまで歩まれてきた生涯を確かに支えておられた、見えないキリストの招きによって与えられた時です。
Aさんが歩まれてきた生涯の中には、時代の厳しさや、肉親との別れや、お勤めになる中で、ご本人しか知らない苦悩と直面されたこともあったはずです。
しかし、悲しみの時も、喜びの時も経験しながら、その生涯を確かに歩み抜くために、Aさんは見えずとも確かに存在する命の土台を大切にされてこられたのではないでしょうか。また、その土台はAさんだけのものではなく、残された地上での歩みを進めていく私たちの心の礎ともなっていることも覚えたいと思うのです。
私たちは今、Aさんとの地上での別れを前に、寂しさと悲しみの思いに包まれています。しかし、Aさんが私たちのために生涯をかけて残してくださった功績は、これからも私たちの人生の土台となって支え続けてくだいます。
死は終わりではなく、永遠の命に生きる始まりである。そこに私たちの希望があることを覚えながら、Aさんの魂の上に、そして、ご遺族の皆様の上に主の深い慰めがあるように、ここに共に祈りを合わせたいと願います。