慰めの名言と信徒に限定されない救済観

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 学校の世界史などで概要のみを学ぶとなると、キリスト教の救いのイメージ(救済観)として「信者は天国、そうでない人々は地獄」といった印象をお持ちの方もあるかもしれません。そして、(この原稿の担当者としては大変残念な思いを持っておりますが)部分的にはこれは的を射ていると言わざるを得ず、実際にそのような理解を持って宣教活動をしている教会やキリスト教徒もあります。このような宣教方法は「滅びに至るノンクリスチャン(キリスト教徒ではない人)を救い出してあげる」という使命感を内包するので、目立ちやすいというのが実情かと思われます。

慰めの名言と、この言葉によって信徒でない人たちの死後について見えてくる神の取り計らい

 しかし、このような考えがキリスト教の根本で、唯一絶対のものであるかというと、そうではありません。古い時代から、救いをキリスト教信徒のみに限定しない考え方(救済論)は存在しています。古いキリスト者の言葉に、このようなものがあります。

 ああ、わたしたちの創造主の驚くべき恵み!(…)神は、ご自分に罪を犯し、ご自分を冒とくする者をも立ち直らせるのです。(…)わたしたちを悩ませる地獄など、どこにあるでしょう。神の愛の喜びにまさって、わたしたちを脅かす地獄の罰など、どこにあるでしょう。復活の恵みを前にして、地獄とは何のことでしょう。

――シリアのイサーク

(引用はテゼ共同体編、打樋啓史訳『来てください、沈むことのない光 初期キリスト者たちの言葉』、サンパウロより)

天国は誰のもの?

 シリアのイサークは7世紀ころの修道士です。いくつかの言葉が現代まで残され、教会内で大切に読み続けられていますが、その多くが神への絶大な信頼を語っています。そして、引用の言葉は特に「地獄など、どこにあるでしょう」「地獄とは何のことでしょう」と、地獄そのものの存在すら懐疑的です。またこの話がキリスト教徒のみに当てはまる話ではないのは、「冒とくする者をも」という言葉から見えるでしょう。(そもそも非キリスト教徒の全員が神を冒とくしているわけでもないと個人的には思いますが、)どれほど神に対してネガティブなことをしていたとしても、神の側からの恵みが欠けることはないし、地獄の罰などない、という意味を受け取ることができます。ここに「ただしキリスト教徒であるかどうかは別で地獄行きがありえる」、と注釈を付けてしまうのは不自然でしょう。

 ですから、信徒かどうかで国境を引かれるような天国などなく、すべてを慈しみ抱きしめる神がおられる…と信じるのは伝統的である!と言っていいのです。

 私たちが、キリスト教信徒としては地上を歩まなかった方々の葬儀も執り行いたいと考えている理由の一つは、ここにあります。ひとりの人生を導かれた神の恵みを一緒に味わい、与えられた命を祝いたいのです。「地獄」「死後の罰」に怯えないでよい、という慰めを分かち合いたいのです。信徒にとどまらない恵みを送り、どの人も平安に過ごせるよう一人ひとりを抱きとめる神の大きな慈愛の心こそが、「全知全能」と呼ばれる神さまにぴったりですよね!

小野輝
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