なぜおじいちゃんは死んじゃったの? 私は教会の牧師として働きながら、幼稚園で園長も勤めています。ある日保護者の方から声をかけられまして、園児の祖父が亡くなり葬儀をしたのだそうです。その時園児がなぜおじいちゃんが死んだのかという問いを投げかけてきたのだが、何も答えられなかったというのです。ですから園長先生の方から子どもになぜおじいちゃんが亡くなったのかを伝えてもらえませんか?という依頼でした。
私は、急な依頼にとまどいながらも、静かな場所にその園児を呼び、おじいちゃんのことについてゆっくり語り合いました。どんなおじいちゃんだったのか。どんな思い出があったのか。 そしてこう答えました。この世界の全ての命は神様が与えてくださったんだよ。花も木も鳥も動物も君の命もおじいちゃんの命も全て神様が与えてくれて、この世界で生きなさいと送り出してくださったんだよ。
おじいちゃんが生きている間、色んなことをしたよね。君をとっても愛してくれたし、お父さんお母さんを大切にして、家族を守って、たくさんお仕事もして、友達とすごして。おじいちゃんはたくさんのことをこの世界でしたんだよ。そして、神様が良い時に天に帰っておいでとお迎えをしてくださって、今おじいちゃんは神様のもとに帰っていったんだ。 僕たちはもっと生きてほしかったと思う。なんで今なのかはわからない。けれども、神様はきっと今おじいちゃんを優しく迎え入れてくれて、よく頑張ったねと褒めてくれて、おじいちゃんはとても優しい気持ちで安らかに過ごしているよ。君も私もそうやって生きて、いつかは神様のところにいく。その時おじいちゃんにも会える。その日まで神様に与えられた命を頑張って生きようね。そのように答えました。
園児が納得してくれたかはわかりません。しかし私たちは神様に命を与えられて、人との出会いを与えられ、生きる意味を与えられます。 あなたの大切な人は何を残してくださったでしょうか。思い出を残し、言葉を残し、教訓を残してくださったのかもしれません。何よりも命を生きるとはどういうことかという大切なことを私たちに教えてくれたのかもしれません。 キリスト教葬儀は慰めの祈りの中でそのことに向き合い、命を考える時と言えるでしょう。