死ぬことを忘れない
「Memento Mori(メメント・モリ)」という言葉をご存知でしょうか。意味は分からないけれど見聞きしたことがあるという方もおられるかもしれません。芸術作品、映画や小説、絵本、歌などの幅広いジャンルの作品で用いられています。
中世キリスト教の修道院においては、この言葉が挨拶として交わされていました。「メメント・モリ」は「死を忘れるな」「死を想え」を意味するラテン語です。人は死すべき存在であることを想起させる句は、古代ローマからあったそうです。戦に勝利し歓喜に浸っている将軍の後ろから「あなたはいつか死ぬ人間であることをお忘れなく」と家来が釘を指す。そうした文化が根付いていました。「メメント・モリ」は決して避けることの出来ない「死」を意識させることにより、生き方や人生、人間とは何者かを問う言葉のように感じます。
生きている・生かされている
聖書の中の「創世記」では神が土の塵で人間を造り、そこに命の息を吹き入れた物語が記されています。人間は塵と何ら変わらない存在でありながら、神によって生きる者とされたという理解がここにあります。被造物としての人間は、その命を神から頂いているのです。だからこそ、私たちは命の終わりである死をコントロールすることは出来ません。
もう少し言い方を変えれば、私の人生でありながらも、その主体は私ではなく、神だということを表しています。「主は与え、主は奪う」(ヨブ記1章21節)といった考えが根底にあるのです。こうしたキリスト教の死生観に触れるとき、違和感や抵抗を覚えることもあるでしょう。ただ一方で、生も死も与えられるものという視点は、限りある命と向き合う時に、また人生の別れに躓きぶつかる時に、支えとなることもあるのです。自分ではどうすることも出来ない現実を突き進む「力」になったりするのです。
死と向き合う、人生の軌跡を残すために
子どもがある日突然「死にたくない」と言って泣き出して困ったことがある、という話を聞きました。
私たちは誰にでも必ず訪れるはずの死をあまり語りたいとは思いません。死については分からないことだらけ。語るのは何となく憚れる。ましてや自分や大切な人の死を考えることなど持ってのほか。そんなふうにして人は普段「自分はいずれ死ぬ」という事実から目を背けながら生きてしまいがちです。それでもここ十数年の間に、エンディングノートや終活という言葉が現れ、人々の関心が「自分の最期」に注がれるようになりました。それ自体は「メメント・モリ」に通じるものであり、人が死と向かい合うきっかけになるので批判するものではありません。しかし気をつけたいのは、そうした「作業」が優先され、事務的な部分を補うだけになってしまい、本当の意味での人生のゴールを見つめているかはよくよく吟味しなければいけないと感じています。
キリスト教では葬儀に向けて生前から準備をします。というより、自分のお気に入りの賛美歌を葬儀の時に歌ってほしい、自分の好きな聖書の言葉を読んでほしいと要望を家族や教会の友人に伝えておきます。それはもっとも短いかたちで現される自分の生きた証、信仰の証だと、私は思っています。その方がどんなキリスト教に触れ、どのように聖書を読み、一人のキリスト者として歩んできたかを、残された者に伝えていく。その意味で、キリスト教における死と向かい合う葬儀の時は、その人にとっての人生最後の伝言、メッセージを残すひとときになっていくのです。
なんてこと無いゴールを目指して
Mrs.GREEN APPLEのボーカル⼤森元貴さんがソロ活動中にリリースした楽曲に「メメント・モリ」というものがあります。この曲はタイトルからも想像ができるように「死」をテーマに扱っています。重いテーマと真正面から向かい合い紡ぎ出された言葉とメロディーはとても優しく、聴いた時になんだか温かい気持ちになります。その雰囲気がMV(ミュージックビデオ)ではそのまま世界観として現れ柔らかいタッチのアニメで描かれています。曲の最後は次のように綴られています。
――いつかいつの日か全部
置いて逝かなきゃいけないけど、
生まれた意味に喜べるから
なんてこと無いのです。
自分の最期は、なんてこと無いのです。――
人は死すべき存在であり、それを覆すことは人間には誰にもできません。だからこそ、自分の人生をしっかりと、きっちりと、豊かに、幸せに歩みたい、進みたいと色々な願望を膨らませてしまいます。しかしこうした願望はともすれば、富や名声といった最も分かりやすく評価されるものを求める生き方へと誘導します。けれども私たちはいつかは「全てを置いて」いく日が来るのです。その時に残るのは何でしょう。いや、私が残したいものは何なのでしょう。結局のところ、限りある命をどう生きてきたか、生かされていた日々をどう喜んで過ごせたか……そんな、なんてこと無いシンプルな答えにたどり着くのかもしれません。自分の最期はそんな暖かさで包まれる瞬間でありたいと願っています。