もろびとこぞりて むかえまつれ
ひさしくまちにし しゅはきませり
この賛美歌を聞けば、気分はクリスマス。名曲「もろびとこぞりて」です。
新世紀エヴァンゲリオンの映画でも、大事な場面で使われていました。季節になると、あちらこちらで聞こえます。ショッピングモールだけでなく、なんと行きつけのスーパー銭湯でも流れていました。教会の仕事で疲れて銭湯に行った牧師に、オルゴール風の「もろびとこぞりて」が癒しの圧をかけてきます。

さて、この曲、私には思い出ぶかい曲でもあります。それは、牧師になって初めて司式をした葬儀で歌った賛美歌だからです。それも5月に。
キリスト教の葬儀、特にプロテスタントの葬儀では、葬儀のなかで賛美歌がいくつか歌われます。お通夜にあたる前夜式も、そして出棺の前に行う礼拝にも。参列する方々の中には、戸惑う方もおられるでしょう。お経を聞いてお焼香をしてという、声を発さない参列のありかたの方が一般的ですから。そして、歌が趣味という人以外は、声を合わせて歌をうたう機会もそうありません。中には「人前で歌わなければならないから、キリスト教の葬儀は苦手」とおっしゃる方もおられます。それでも、もしプロテスタントの葬儀にご参列なさる機会があれば、賛美歌のことばと旋律とを見つめてみるのも悪くはありません。大声で歌わずとも、小さく呟く程度でもかまいませんから。

式の中で歌われる賛美歌は、牧師が選ぶ場合もありますし、生前にその方が選んでおられる場合もあります。その人が特にお好きだった賛美歌が歌われることも、少なからずあります。葬儀のプログラムを見ると、賛美歌の番号の横に「故人愛唱歌」などと記されていることも。賛美歌はその人の大切にしてきた祈りのことばであり、慰めの音であり、喜びの韻律です。不思議と、葬儀の中で歌われる賛美歌からは、その人の生きる姿、祈る姿があらわれています。

さて、件の「もろびとこぞりて」です。
私が初めて牧師ならびに司式者として責任を持った葬儀は、九〇歳をこえておられた方のものでした。彼女は天に召される2ヶ月前に、病床洗礼をお受けになりました。その方とは、これが初めての出会いでした。ご家族のたっての願いで、洗礼をお受けになるはこびとなったのです。奥多摩に近い、緑の深い病院でした。病床洗礼とは、その方が療養先で、キリスト教徒になるための洗礼を受けることです。療養の関係で、教会で洗礼を受けることが難しい場合、病床洗礼が選択されることが多いのです。
それから2ヶ月後、その方は天に召されました。牧師になってから、初めて責任を持って関わる葬儀。明け方に電話を受けた私は、心が引き締まる思いで病院に向かいました。すでに息子さんのご家族は到着しておられました。病院の廊下の長椅子で、私は息子さんから、その方のお人柄、大切にしてきたこと、そうしたことをしばらく伺いました。

「ところで」と私は切り出しました。「葬儀の賛美歌に、お母さまのお好きだったものを選んではいかがでしょうか。」すると、息子さんは間を入れずお答えになりました。「『もろびとこぞりて』。『もろびとこぞりて』でぜひお願いします。」病院を覆う木々の深い緑に囲まれながら聞いたクリスマスの賛美歌の名前に、正直、どこか異質な感覚を覚えました。5月の葬儀に「もろびとこぞりて」を歌って大丈夫なのだろうか……。
私は息子さんに「この歌がお好きだったんですね」と、念を押すようにしてお尋ねしました。息子さんは長年教会に通っておられる方です。彼はこう話してくださいました。物忘れが多くなり、いろんな歌も忘れた母。しかし最後まで覚えていたのがこの「もろびとこぞりて」だったのだと。クリスマスの時期だけではなく、ことあるごとにあの旋律を口ずさみ、「主は来ませり 主は来ませり」と繰り返しては微笑んでいたのだと。

「ぜひ歌いましょう。」先ほどまで自分の頭にあった「季節に合わない」「参列者が違和感を持たないだろうか」という不安はどこかへ行ってしまいました。「もろびとこぞりて」のメッセージは「これこそ、ずっと待ち侘びていた嬉しい知らせ。救い主がわたしたちのところへ来てくださったのだ!」というもの。人生の最後に洗礼を受けられたこの方には、もっともふさわしい賛美歌ではないか、と。私は葬儀でオルガンを弾いてくれる方に連絡をしました。オルガニストは快く引き受けてくださいました。そして明くる日の夕べ、木々の緑が窓に映える木造の礼拝堂で行われた前夜式。ご家族と教会の人たちと共に歌った「もろびとこぞりて」は何の違和感もないどころか、その人がたしかに神様のみもとにおられることを確信させられる、あたたかく深い響きだったのでした。